アクティブビーンズ

自家焙煎コーヒー豆の販売
パスタのお店
新潟市秋葉区荻野町9-14
<< March 2024 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

お井戸の中の地蔵さま 西島(にしじま) 雨降り地蔵さま 「昔話」

0
    JUGEMテーマ:昔話

    秋が深まる肌寒い季節、少し射した太陽の光が心地よい今日この頃。
    皆様、かわりなくお過ごしでしょうか?
    秋中のこの時期とは、少し季節外れなお話です。



    「お井戸の中の地蔵さま」

    トントン昔
    この池は、昔から「お井戸」と呼ばれ、池の中には竜の印のあるお地蔵さまが祀られています。

    村の人達は、このお地蔵さまを「お井戸の中の地蔵さま」と呼んで大切にしていました。

    ある年、梅雨だというのに雨がまったく降らず、田畑の作物も枯れそうになってきました。
    困った村人達は、お井戸の地蔵さまの所へ行き、雨が降るようにと一心にお祈りしました。
    すると、三日後の夜に雨が降り、枯れかかった田畑の作物も、みんな生き生きとしてきました。

    それから後、この地蔵さまを「雨降り地蔵さま」とも呼んで、一層大切にするようになりました。


    この秋葉区には日照り乞い地蔵は聞きませんが、「日照り乞い地蔵」はあるのでしょうか?

    ご覧の通りお地蔵さまの姿は見えません。
    先日の、飯柳の雨乞い地蔵さまとは違い、水の中に浸かったままだそうです。
    飯柳のお地蔵様と西島のお地蔵さまは、秋葉山をはさん東と西にあります。

    先日、「にいつの昔話」を2003年にホームページに残されている、武さんにホームページのリンクをお願いしました。
    了解を頂いたので、リンクをはります。
    約9年で、消えてしまったお社や、その頃はまだ大事にされていなかった、お地蔵さまの写真が見れます。
    滑稽トラベル案内/武様
    かなり情報の多いページです。

    昔話 | permalink | comments(0) | trackbacks(0)

    雨乞い地蔵 飯柳(いいやなぎ) 「昔話」

    0
      JUGEMテーマ:昔話

      雨乞い地蔵さまに行くと、なぜか雨が降ってきます。
      今回は小雨だったので、写真撮れました。

      雨乞い地蔵さまといえば、日照りの年にお祭りし、雨を降らしてもらう、と言うのが一般です。
      しかし、こんな都市伝説もあります。
      世界や人類の始まりは水、終わりも水、ノアの箱舟でも1つの世界が大洪水で終わりますが、雨乞い地蔵にもそんな伝説があるのです。

      開拓をする貧土な土地に日照りが続き、民はことごとく力尽き神の力を借りた。
      すると大雨が降り、整地した土地は流され、大河となった。
      水が引くとその土地は、上流からの肥土で豊な土地なった。
      しかし、住む者は流され、誰一人いなくなっていた。


      「この地蔵は400年前、私がこの滝においたのです。」と乞食は言った。
      「そろそろ、この地蔵の役目が来ました。」土地を絶え間無く潤してくれた雨乞い地蔵にそう言った。
      「この地蔵の役目は、旧世界と新世界を、いれかえるための地蔵です。」そう言うと、世界は水にのまれた。
      乞食こそが神だったのかは、もう知る由も無いが。



      「雨乞い地蔵」



      トントン昔
      能代川にお地蔵さまが流れてきました。

      飯柳の村人がそれを拾い上げ、お堂を作って安置しました。
      このお地蔵さまは、日照りに大変ご利益があり、金屋の二の堂の堀に漬けておくと、必ず七日以内に雨が降るのです。

      ある年のこと、日照りが続いたので、困った隣の岡田の人々が、金屋の堀に漬けてあったお地蔵さまを夜中に持ち出し、岡田の堀に漬けておきました。

      ところが、翌朝になると、岡田に向けておいたはずのお地蔵さまが飯柳の方を向いており、三日後に飯柳だけに雨が降りました。

      その後、このお地蔵さまを「雨乞い地蔵」と呼ぶようになりました。
      昔話 | permalink | comments(0) | trackbacks(0)

      河童の約束 小口(こぐち) 平遺跡 「昔話」

      0
        JUGEMテーマ:昔話

        第二子が生まれます。
        年末にです。
        ご心配頂いた皆様に心より御礼申し上げます。
        なお、出産費用等稼ぎたく思います。
        今後とも宜しくお願いします。

        話しは変わって、ここ小口は縄文時代から人々が暮らす歴史の地域です。
        多くの史跡も残り、河童がいてもおかしくない、異次元の空間をうみだしています。






        「河童の約束」

        トントン昔、小口の九十九曲川(くじゅうくまがりがわ)に悪さをする河童がおりました。
        畑の物を食い散らかしたり、馬や牛の家畜を川に引きずり込んだり、ひどいときには子供や大人までも溺れさせておりました。

        ある日、忠右衛門という者が能代川で馬を洗い、間様の屋敷の馬小屋へ入れると、しっぽに河童がぶらさがっておりました。

        忠右衛門はこのときばかりと、河童の皿から水をぬきなわでしばって、馬小屋のはしらにくくりました。
        「だぁ、おめぇこの河童、悪ぁ〜り事ばっかしてっと、おめの頭の皿割ってしもぞ〜こら〜」
        河童は忠右衛門の迫力にあっとうされ、「かんべして〜かんべんして〜」と必死にあやまりました。
        もともとやさしい忠右衛門は、「いっか〜 いっこにしてれば誰もこんげことしねんぞ。たまには村のしょのため、なんかしれやぁ〜」とゆるしてあげました。
        河童はなんども頭をさげて九十九曲川のほうへきえてゆきました。

        あくる朝、間様が家の戸口に下げておいた木のかぎつけを見ると、りっぱな鮭がつるされておりました。
        間様は忠右衛門に、「昨日たすけた河童から鮭の土産がとどいたぞ」とおしえました。
        あくる日も、またあくる日も河童から魚の土産がとどきました。
        毎日毎日、大きな魚が木のかぎつけにつるされておったので、かぎつけはこわれそうになっておりました。
        間様は気をきかせ、鉄のかぎつけに交換し下げておきました。
        すると、それからぱったり河童はこなくなりました。
        忠右衛門はしんぱいになり、村のお年寄りに聞きました。
        すると、お年寄りは「河童は鉄をきろうんじゃて〜、しゃびがいやなんろぅ」と答えました。
        そうです、河童は鉄で出来た物が嫌いだったのでした。

        しかし、その後も、河童にいたずらされたり、溺れる者もいなくなり、間様が知らぬ事だがすまなかったと、木のかぎつけを下げた、りっぱな神社を建て河童を崇めたそうです。

        この神社を間神社と云いますが、今は取り壊されて見ることはできません。
        写真は「にいつの昔話と史跡の道」より

        現在の写真
        昔話 | permalink | comments(0) | trackbacks(0)

        河童の約束 小口(こぐち) 平遺跡 「昔話」

        0
          JUGEMテーマ:昔話

          第二子が生まれます。
          年末にです。
          ご心配頂いた皆様に心より御礼申し上げます。
          なお、出産費用等稼ぎたく思います。
          今後とも宜しくお願いします。

          話しは変わって、ここ小口は縄文時代から人々が暮らす歴史の地域です。
          多くの史跡も残り、河童がいてもおかしくない、異次元の空間をうみだしています。






          「河童の約束」

          トントン昔、小口の九十九曲川(くじゅうくまがりがわ)に悪さをする河童がおりました。
          畑の物を食い散らかしたり、馬や牛の家畜を川に引きずり込んだり、ひどいときには子供や大人までも溺れさせておりました。

          ある日、忠右衛門という者が能代川で馬を洗い、間様の屋敷の馬小屋へ入れると、しっぽに河童がぶらさがっておりました。

          忠右衛門はこのときばかりと、河童の皿から水をぬきなわでしばって、馬小屋のはしらにくくりました。
          「だぁ、おめぇこの河童、悪ぁ〜り事ばっかしてっと、おめの頭の皿割ってしもぞ〜こら〜」
          河童は忠右衛門の迫力にあっとうされ、「かんべして〜かんべんして〜」と必死にあやまりました。
          もともとやさしい忠右衛門は、「いっか〜 いっこにしてれば誰もこんげことしねんぞ。たまには村のしょのため、なんかしれやぁ〜」とゆるしてあげました。
          河童はなんども頭をさげて九十九曲川のほうへきえてゆきました。

          あくる朝、間様が家の戸口に下げておいた木のかぎつけを見ると、りっぱな鮭がつるされておりました。
          間様は忠右衛門に、「昨日たすけた河童から鮭の土産がとどいたぞ」とおしえました。
          あくる日も、またあくる日も河童から魚の土産がとどきました。
          毎日毎日、大きな魚が木のかぎつけにつるされておったので、かぎつけはこわれそうになっておりました。
          間様は気をきかせ、鉄のかぎつけに交換し下げておきました。
          すると、それからぱったり河童はこなくなりました。
          忠右衛門はしんぱいになり、村のお年寄りに聞きました。
          すると、お年寄りは「河童は鉄をきろうんじゃて〜、しゃびがいやなんろぅ」と答えました。
          そうです、河童は鉄で出来た物が嫌いだったのでした。

          しかし、その後も、河童にいたずらされたり、溺れる者もいなくなり、間様が知らぬ事だがすまなかったと、木のかぎつけを下げた、りっぱな神社を建て河童を崇めたそうです。

          この神社を間神社と云いますが、今は取り壊されて見ることはできません。
          写真は「にいつの昔話と史跡の道」より

          現在の写真
          昔話 | permalink | comments(0) | trackbacks(0)

          洪水から村をすくった地蔵さま 川口(かわぐち) 川口地区地蔵尊 「昔話」

          0
            JUGEMテーマ:昔話

            中秋の名月はご覧になりましたか?
            秋ですね〜・・・でも、アッチェ日が続きますね〜
            天気が良ければ、良過ぎて「あっちぇ〜」天気が悪けりゃ、悪くて「さ〜め〜」人間って勝手ですね、わがままですね。
            そんなわがままな人間達を助けてくれる、お地蔵さまのお話しです。


            「洪水から村をすくった地蔵さま」

            トントン昔、ある寺の境内に「生き地蔵」と呼ばれるお地蔵さまがおりました。
            川口は阿賀野川と信濃川を結ぶ、小阿賀の川があります。
            村の人々は、小川を作り、小阿賀の川の水を通し、生活に使っていました。
            野菜を洗ったり茶わんを洗ったり、洗濯や田畑の水に使っていました。
            ただ困ることは、雨が降ると水が小川から、あふれてしまうことでした。

            ある日、小阿賀の川の水かさが、ずいぶん増える大雨が降りました。
            村人達は、土手に上り、洪水にならないよう願っていました。
            女の人や子供は、村のお寺に非難して、仏さまに合掌してお願いしていました。
            しかし、いっこうに雨はやみません。
            三日三晩降り続きました。

            三日目の夜中のことでした。
            みのも傘も着けず、大声で、「おうい、土手が切れるぞー。」と村人を起してまわった者がいました。

            村人達はびっくりぎょうてん、早速土手にかけつけると、切れかけた場所に杭を打ち、土俵を積んだりして、土手を守りました。

            翌朝雨はやみましたが、小阿賀の川の水は、まだ減りませんでした。
            村人達が、「夜中に俺達を起してまわってくれたの誰ら?」「いやいや、おかげで洪水にならんでよかった。」「みのも傘も着けねで、大丈夫らったろかな?」と話していました。
            すると、境内の奥でお婆さんが「いや〜、お地蔵さまが泥だらけらよ〜誰かきて〜」とさけびました。
            村人達が境内の奥まで行くと、そこには全身泥だらけで、すましたやさしい顔のお地蔵さまがいました。

            「夜中俺達を起してくれた者は、このお地蔵さんらったんだ。」「生き地蔵さまら。」「そうら、そうら。」
            村人達はこのお地蔵さまをいっそう大事にし、地蔵尊を造り、今でもお祀りしているのです。


            この「生き地蔵」のある場所は秋葉区の川口、浄土真宗 真宗大谷派 東護山
 改観寺さまにあります。
            この昔話の「このお寺」はどこのお寺を指しているかは不明です。
            一枚目の写真では、鳥居に卍が見られますので、薬師如来さまが関係しているのかもしれません。
            経机も朱塗りで、木魚も見られます。

            察する所、天武天皇が開基した薬師寺で、法相宗由来であろう。
            本来の基とは関係なく、ツツガムシ病や伝染病で助けを求め祀られたのかな?
            もしくは昔話のとおり、洪水を防ぐために祀られたか?

            そんなことよりも、このお地蔵さまは本当に大切にされています。
            地域の子供達の学習にも一役かっています。

            改観寺さまも地域に根ざしたお寺さまで、コンサートをしたりして貢献しています。
            綺麗な本堂やお庭を見に来るのも良いですよ。
            その際は心ばかりのものを、御本尊様にお供えください。
            「生き地蔵」さまの地蔵尊も浄財入れがあります。
            手を伸ばせば届きそうな・・・「絶って盗むなよな!」合掌
            昔話 | permalink | comments(0) | trackbacks(0)

            夜泣き地蔵 金沢町 (かなざわちょう) 石津さん宅 「昔話」

            0
              JUGEMテーマ:昔話

              世界中はインターネットで結ばれている。
              一人じゃないよ、世界の人々が友達だよ。

              困りますね、歩きながらあくびもできません。
              今日仕入れの途中、無謀運転の老人を発見しました。
              対向車の運転手全員に、メンチ切ってました。
              そんな、おじいさんに、携帯電話のカメラでシャッターを切ってやりました。
              危険運手者通報ブログにUPしちゃうぞ!
              皆さんも「壁にミミアリー障子にメアリー」ですから、気を付けましょうね。

              昔は、こんな危険な運転をするおじいさんの噂が広まるのには、時間がかかりました。
              このおじいさんの情報も、知り合いが行ったお店や、旅行の話しも、今はインターネットで閲覧して、行った気分や見た気分になってしまいます。

              情報網、今は光やADSLなにがしですが、昔は六部がその役を担っていたのです。
              六部:六十六部のこと、六十六部の法華経を、六十六か所の霊地に納めるために白衣に手甲、脚絆姿で巡礼した僧の事を言う。



              「夜泣き地蔵」

              トントン昔、一体のお地蔵さまを背負った六部が新津へやって来ました。
              ここまで来たとき、背負っていたお地蔵さまが急に重くなり、一歩も歩けなくなりました。
              六部はお地蔵さまを地面におろしてしばらく休みました。
              疲れもとれ、お地蔵さまを背負おうとしましすが、根がはえたようにびくともしません。
              六部は、お地蔵さまがここに居たいと思っていることを悟り、家の人にお願いし、この場所に安置してもらいました。
              この家では、子供の夜泣きで困っていました。

              ところが、お地蔵さまが来られてからは夜泣きがぴたりと止まり

              やがて、子供の夜泣きによく利くお地蔵さまとして評判になりました。

              このお地蔵さまは、今も金沢町の石津さん宅の大門に安置されています。
              見学するときは、「お邪魔します」と言ってから見てください。
              言わないと、警察に通報されます。
              もしくは、不審者通報ブログにUPされるかもしれません・・・
              昔話 | permalink | comments(0) | trackbacks(0)

              引越を嫌った神さま 田島(たじま) 諏訪明神 「昔話」

              0
                JUGEMテーマ:昔話

                さて、実りの秋になりました。
                巷は「値上げ」のニュースも気になる中、台風で被害にあわれた方々には心からお見舞い申し上げます。

                新潟県は稲刈りが始まりました。
                気になる事もありますが、見たところ豊作のようです。

                ここに見えるのは、荻島 田島の水田風景です。
                食いきれないほどの米が実っています。食いきれないから盗もうとも思いません。
                その向こうには、磐越自動車道がはしっています。
                この水田はその昔、そう、高速道路がない頃は、三枚潟地区まで続いていました。
                その三枚潟地区には氏神さまがおりませんでした。

                トントン昔、その年は最近では見ない、米が豊作の年でした。
                ここいらの集落は、豊作を祝って氏神さまのために、豊作祭りを行う取り決めをしたそうです。
                しかし、覚路津近くの三枚潟には、氏神さまがありませんでした。
                そこで、田島の諏訪明神さまを三枚潟へ移すこととなりました。
                明日はいよいよお見送りという前の晩のこと、諏訪明神のお宮をお守りしている権四郎(ごんしろう)の夢の中に、白い着物を着た神さまが現れました。
                「わしは三枚潟へ行きたくないのじゃ。子供たちが遊ぶのをここで見守りたいのじゃ。」と、さびしそうに言われました。
                権四郎は「明日は引越しというのに、どうしたもんじゃ。」と困っていました。
                ところが、それと同じ夢を三枚潟の人達も見ていたというのです。
                それで、諏訪明神さまをお移しすることはとりやめになり、田島の人々は今まで以上にお宮を大切にするようになりました。
                今は諏訪明神さまの横に、大きな結田島公園があり、今も子供たちを見守っているそうです。

                えっ、三枚潟の人達はどうしたって?
                八幡宮さまを祀り、無事に豊作祭りをすませたそうですよ。
                昔話 | permalink | comments(0) | trackbacks(0)

                オヘジろんの地蔵さま 六部の入穴 三郷野

                0
                  JUGEMテーマ:昔話

                  三郷野の地蔵さま、最後のこれは画像がほしかったが・・・

                  袈裟ガケ地蔵、生首地蔵、水害、飢餓、大正の頃まで不自由だった集落は多くあった。
                  住人達は思いやりや、裏切りを、知らず知らずにやってきた。
                  そんな世で、オヘジろんの地蔵さまは、即身成仏または即身仏となりこの地を守ろうとした者達がいたという証拠だ。

                  オヘジろん:ここで言うオヘジろんとは、真言密教の修験道をお遍路さんだと思った事によるため、おへんろ→オヘジろんとなったのであろう。
                  また、修験道は白装束(しろしょうぞく)であった事でも言える。

                  六部:六十六部のこと、六十六部の法華経を、六十六か所の霊地に納めるために白衣に手甲、脚絆姿で巡礼した僧の事を言う。

                  入穴:入定(にゅうじょう)と言い、法華経に基づき、天台、日蓮宗において、もしくは別の、即身仏または即身成仏となりための行動。

                  オヘジろんの地蔵さまは、少なくとも三郷野には2体あり、どちらも同じ意味で祀られている。
                  子育地蔵というところも同じである。
                  死して仏となる即身仏と、体は無くとも生き菩薩になる即身成仏とがあるわけで、水害・飢餓・不作などから人々を救おうとしたことは間違いないらしい。特に子供達を守ろうとしたのではないか?

                  「オヘジろんの地蔵さま 六部の入穴」

                  昔、六十六の霊地に、お経を納める六部が三郷野を通りかかった。
                  村は水害で、田畑や家までもがくちていた。
                  腹をすかせた老若男女が、道ばたに倒れ餓死しているものいた。
                  そこに、腹のぷっくりふくらんだ子供が、六部に近寄り言った。
                  「おへじろん、おへじろん、なにか食い物ちょうだい」
                  六部は残しておいたにぎりめしを、ほかの者に見えぬように、その子供にあたえた。

                  六部の六十六部は残すところ一箇所だった。
                  ここまでこれた自分の加護を仏にお礼し、またこの村の者達を救うように祈願した。
                  そこへまた、さっきの子供が現れた。
                  「この村じゃあ毎年飢餓のなか、藩の年貢がつらくて、つっあつっあもかかも(お父さんもお母さんも)いねなった。おれももうじ、この子の体借りて、この村出るすけ。」
                  そう言うとすっと消えてしまった。
                  六部はその子供が仏様の分身だとすぐにわかった。
                  六十六部の最後の一箇所がこの地である事を悟ったのだ。

                  六部はすぐにでも入定できる準備ができていた。
                  入穴に入り、村人に「鐘の音がしなくなったら、仏になったものと思ってくれ。この地が救われるよう最後の経を持って、この地を六十六部の最後の霊地となるように念仏をとなえる。」と言い残し入定した。

                  鐘の音は十日間なり響いていた。
                  いつしかこの六部のもとに、腹のぷっくりふくらんだ子供が姿を見せるようになった。
                  「鐘の音は聞こえるか」と村人がたずねると、「おれ、鐘の音聞いてるすけ」と子供は答えた。
                  不思議に思ったが、村人はほっておいた。

                  しばらくして、鐘の音が消えた。
                  村人は子供がきがかりで、六部の穴まできた。
                  「わらし、家には食い物がねぇけど、味噌があったから持ってきた。なめれ」と声をかけた。
                  子供は返事をしなかった。
                  村人がよくよく見てみると、それはお地蔵さまだった。
                  ♪六部の情けが仏をすくった。味噌の情けが村すっくた。おへじろん来たらにぎりめし、お味噌ぬってさしあげろ♪

                  三郷野の地蔵さまは、長く続いた時代の産物。
                  この石で作られた物体が何を意味し、何のために人の近くにあったのか、もい一度思い巡らせるのは悪いことではないと思います。
                  「忘れ去られる忘れてはいけないもの」が自分にもあったような?無かったような?・・・

                  「終わり」
                  昔話 | permalink | comments(0) | trackbacks(0)

                  神さまが投げた石 古田ノ内大野開(こだのうちおおのびらき)

                  0
                    JUGEMテーマ:昔話

                    世の中には不思議な事がたくさんありますよね。
                    不思議な人工物が街にあるのは、テレビ番組でやっていて、誰が何の目的でそこにある、けっこう楽しくおもしろいものです。
                    しかし、「むかしむかし」ならどうでしょう?村人は首をかしげた事でしょう。

                    豊年橋をこえた集落、この水田地帯にな「なぜあるんだろう」と思わせる大きな石、実はこんな事実があったのです。

                    あたりはコシヒカリが青々と茂げ、きれいに整備された水田。

                    今は近くを高速道路が通り、一番近かった民家「神田さん」のお宅は移転したのだろうと思われます。


                    「神さまが投げた石」
                    昔、このあたりに大蔵兵衛という乱暴者が住んでいました。
                    そのあまりのひどさに、村人達は大変困っていました。
                    これを見た弥彦の神様は、大層おいかりになり、大蔵が昼寝をしていたとき、神社にあった大石を大蔵めがけて投げつけました。

                    石はうなりをあげて飛んでいきました。
                    その音で大蔵は目を覚まし、あわてて逃げ出しました。

                    しかし、石はどこまでも追っていき、とうとう大蔵の足にあたりました。
                    大けがをした大蔵は、近くの温泉で治そうとしましたが、とうとうそのけががもとで死んでしまいました。
                    この石は、「大蔵のつぶて石」とか、「弥彦明神の投げ石」とか呼ばれています。

                    上の地図で分るように、秋葉区には大蔵という部落があります。
                    大石のある地域は満願寺地区の水田で、大蔵部落に住んでいた乱暴者が、満願寺地区の水田へと大石を避けるために逃げて来たのでしょう。

                    弥彦神社といえば、「火の玉石」キコリの化石(きこりのかせき)が有名ですね。
                    もともと石にかかわりのある弥彦さま、神の怒りにふれると石のばちがあたっちゃうのです。

                    大蔵が怪我を治療にいった温泉「新津温泉」、大蔵部落から3キロメートルほどの場所にあります。

                    この大石が水田の真ん中にぽつんとあるのは、ただただ不思議なばかりです。
                    でも考え方一つでわかって来る事もあります。
                    この場所は阿賀野川と能代川のあいだ、その昔には、洪水になれば水浸しになる場所です。
                    写真に高速道路があるとおり、石の近くは地盤のしっかりした、平坦に見えても少し小高い場所なのでしょう。
                    昔は石のある場所に何らかの木が立っており、道の目印となっていたと思われます。
                    新津温泉に行くときは、この石に座って一休み、多くの人々が足の痛みをやわらげるため温泉に行ったのです。
                    孫をおともに。
                    そのとき年寄りが孫に話したのが、「大蔵のつぶて石」や「弥彦明神の投げ石」だったのかな???
                    昔話 | permalink | comments(0) | trackbacks(0)

                    蛇になった婆 川口(かわぐち)

                    0
                      JUGEMテーマ:昔話

                      ちょっと三郷野の話しから脱線して、川口の昔話を。

                      川口の諏訪神社、ここには昔し池がありました。
                      その池は「婆池」と呼ばれ、子供達もあまり近寄らない池でした。
                      今は埋め立てられ、そこに池があったという石碑だけがあります。


                      「蛇になった婆」

                      昔、意地悪なお婆さんがお寺の講中の寄り合いに出かけました。
                      このお婆さん、台所を嫁にわたすのがいやで、お嫁さんに意地悪ばかりしていました。
                      お婆さんが一番大切にして、お嫁さんにさわってほしくないもが、自家製のお味噌でした。
                      お婆さんは、米倉の味噌が気になって、お経も読めません。

                      家ではお嫁さんが、夕飯のしたくをしていました。
                      味噌汁の味噌を取りに、米倉に入って行くと、薄暗い米倉の味噌樽の上に大きな蛇がとぐろをまいていました。

                      びっくりした嫁は、すぐさま家に戻り、火ばしを真っ赤に焼いて、蛇の頭に押し当てました。
                      その時、お寺でお坊さんのお説教を聞いていた意地悪なお婆さんが「ギャー」と、ひたいを押さえてたおれました。
                      驚いたまわりの人々が助け起こしてみると、ひたいに焼け火ばしを押し当てたような焼けどの痕がありました。

                      お婆さんは、嫁に大切な味噌を勝手に使わせたくない一心で、その魂が蛇になっていたのでした。
                      お婆さんは恥ずかしさのあまり、ここにあった池に身を投げ、大蛇になって池の底に姿をかくしてしまいました。


                      このお話し、信心のあるお婆さんが、意地悪だったのか?不思議なところですね。
                      昔、嫁に台所を預けるということは、「隠居に入る」事で、用済みな感じを嫌う傾向はあったと思います。
                      味噌はこのお婆さんばかりか、どこの家でも大切にしていたものです。
                      戦後、味噌泥棒が横行したのも事実で、この新津でも事件史に数多く書かれています。
                      そして蛇、昔の米倉には蛇が居た方が良いとされていました。
                      穀物を食うネズミ退治のためです。「アオダイショウのいる家は栄える」など、年寄りに聞くとよく言いますね。
                      そう考えるとこのお婆さんは、この家を守ってきたお婆さんなのでしょう。
                      信心深く、まだまだ働きたく、米倉の蛇を大事にしていた。
                      それをお嫁さんが、何も任せてくれない「意地悪婆」と言っていたのではないでしょうか?
                      お婆さんが、寄り合いに行っているうちに味噌樽をあけ、蛇がいたから追い払うのではなく、焼けた火ばしを頭につける。
                      その異変にお婆さんは倒れ、いつの間にか近所から、嫁いじめをする悪いお婆さんのレッテルをはられ、生き恥さらすのも・・・と池に身を投じた。
                      大蛇は水害のある地域で、川の蛇行のように見え嫌われるケースが多いようです。
                      昔話 | permalink | comments(0) | trackbacks(0)
                      プロフィール
                      アクティブビーンズ入口
                      RECENT COMMENTS
                      ARCHIVES
                      ブログランキング・にほんブログ村へ
                      にほんブログ村